メインクーンとの出逢い

高校3年生の夏休みの1ヶ月間を
地図にも載っていないほど小さな
アメリカの田舎町で過ごしました。
 

 ハイオ州のその町ADA・エイダは、人口が2000人ほど、360度地平線まで続くトウモロコシと小麦畑の海に囲まれた、典型的な中東部スタイルの新興住宅街でした。
 ほとんどの住人が日曜に教会へ行き、黒人の姿を見かけることも少ない保守的な意識の強い、小さな美しい箱庭のような町でした。

 がライオンズクラブに所属していた関係で、クラブの主催する交換留学生制度で私は生まれて初めての海外旅行を経験したわけです。ロスでもニューヨークでも行き先は選べたけれど、その頃はまりまくっていたレイ ブラッドベリィの小説『たんぽぽのお酒』の舞台となったような中東部の田舎町を私は希望しました。

 ンシナシティ空港にはホスト ファミリーのお父さんとお母さんが出迎えに来てくれていました。 きちんと舗装された幅広い道路がどこまでもまっすぐ続き、車は大型のフォード。スピードメーターはずっと100。
  “もっと飛ばせばいいのに”なんて考えていると、そうか、 ここはマイル表示!
ということは140q!でもそのスピード感をまるで感じさせない広い道路と少ない交通量。
 そのスピードで走り続けることおよそ6時間。日本を飛び立ち既に30時間以上、 単調なドライブと時差のせいで、通じない言葉の不安などすっかり忘れて、私はよだれを流しながら眠ってしまいました…。

 在したエイダに初めてきた日本人!ということで新聞に載ってしまったり、最初の1週間は私を見物に来る人たちの相手であっという間に過ぎていきました。

 の町で生まれ、この州で働き、一生本物の海を見る機会もなく人生を終える人が多いと聞き、複雑な気分でした。
  “やっぱりアメリカは広い!”
 『刑事ジョンブック』というハリソン フォード主演の映画をご覧になったことのある方は多いと思いますが、あの映画に登場するアーミッシュの村が車で30分ほどの所にありました。
  ホストファミリーのお母さんが時々アーミッシュの村にパンを買いに行くというので、私もそのおともをさせていただくことにしました。私を見物に来る人たちの騒ぎがおさまると、とたんに暇になっていたからです。

 ーミッシュは彼らの宗教の戒律で文明を拒み、百数十年以上前と同じ生活を守り続けています。
  自分たちの村を自らの手で開拓し、協力して家や学校や教会を造り、家畜を飼い、農作物も自給自足で賄い、パンを焼き、布を織り、真っ黒な服を身にまとい、男性はつばの広い大きな黒い帽子をかぶり、そして真っ黒な馬車に乗り町を闊歩していました。
 まるでタイムマシーンに乗ってたどり着いたような彼らの村は本当に静かで、聞こえるものは小川のせせらぎや、風力発電の風車の回るカラカラという音、遠くで鳴く山羊の声、そして小麦の海を渡る風の音。
 昼間、子供達は村の学校で勉強し、近所の奥さんたちは大きな木陰の下に、椅子とレモネードと手製の菓子を持ち寄りパッチワークをします。
 日が昇ると目覚め、働き、日が沈むと床につく、ここでは全て自然が時間を支配し、それは見事な調和をみせていました。

 のころ私は家で2匹のキジ猫を飼っていました。
 日本を離れて1週間、身近に猫のいない生活の禁断症状がでてきた頃、このアーミッシュの村の納屋で今まで見たことのない美しい長毛の三毛の母猫と4匹の子猫に出会ったのです。
 子猫は既に母親から独立したがっていた頃で、外に出ようとしていました。
  この村ではきっと猫に恐怖を与える人などいないのでしょう。
 母猫は初めて出会う日本人の私が (彼女が私を日本人として認識したかどうかは不明ですが)子猫に近づく許可をすぐ与えてくれました。
 父猫は大きなブラウン マッカレル タビー&ホワイトで、身体を思いっきり伸ばし長くなって馬車の下で眠っていました。
 子猫達はフワフワの綿毛をお母さんにピカピカにグルーミングしてもらっていて、 とても幸せそうでした。

 ーミッシュのお母さんが 「3度目のお産で、いつも4匹生むのよ」 と教えてくれました。とにかくこんなに美しい猫を見たのは生まれて初めてで、なんという種類か?と聞いたのですが 「アーミッシュの村の猫よ」 と笑うだけで特に名前はないようでした。  


 うおわかりでしょうが、私が出逢った猫たちはドメスティックのメインクーンだ、と私は確信しています。

 私のまわりにいるメインクーンたちは、あの時出会った猫達の面影をそのまま引き継いでいます。

セミロングのサラサラした毛、
大型で長い胴、
頑丈な四角い顎、
何よりもおおらかで気だての優しい性格。

 が非常に子猫を気に入った様子に、アーミッシュの奥さんは 「1匹差し上げましょうか?」と。
 もう私は有頂天です。 どうやって日本に持ち帰るか、ホストファミリーのお父さんを巻き込んで日本大使館にまで電話をかけそうな勢いでしたが…。

の旅行の最後の1週間はサンフランシスコでのホテル滞在。
 どう考えてもその時の私には子猫を健康なまま日本へ連れ帰るのことが不可能に思えました。

 その後も2度ほど子猫達に会いに行きました。
  特に私のお気に入りだったお母さんと同じ三毛の女の子。

きっとあの村で、
たくさんの子猫を産み育てたことでしょう。

20数年前のあのころと同じ穏やかな時間の中で・・・

1998.5

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